目が覚めたら、知らない天井が広がっていた。
ふかふかの敷布団の上で、温かすぎて汗をかきそうな羽毛布団がかかっている。
(そっか、売られたんだっけ。その割に、やけに良い布団で寝ている)
和風の家屋の畳に敷かれた布団は、厚みがあり過ぎて体が沈む。
慣れない感覚に戸惑いながら、障子戸を開けた。
綺麗に晴れた空の下に、広い庭が広がる。
その中に、昨日の男がいた。
(人間を喰っていた、僕を買った妖怪だ。|紅《くれない》、だっけ)
縁側に立つと、男が気付いてこちらを見た。
「おはよう、|蒼《あお》。昨日は眠れた?」
(蒼……、そういえば、僕の名前だ)
昨日、紅という妖怪がくれた名前。
名前というものを初めてもらった。
(自分を喰う妖怪がくれた名前でも、嬉しいものなんだな)
それが自分を、自分だけを表す言葉なんだと思ったら、ちょっとだけ嬉しかった。
縁側から庭に降りて、紅に歩み寄った。
「立派なお布団、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。
その頭を紅の大きな手が撫でた。
(大きな手だけど、優しい。温かいな。そういえば昨日も、触れた手は酷く優しかった)
あまりの優しさに、かえって驚いてしまった。
「お礼は要らないよ。ここはもう、蒼の家だ。好きに過ごしていいんだよ。必要なものは揃えるから、欲しいものがあったら教えてね」
よくわからない話をされて、理解に苦しむ。
「あの、僕は、貴方の食料として売られたと聞いてるんですが」
「うん、そうだよ」
あまりにも普通に返事をされて、自分の言葉を後悔した。
「昨日も見ただろ。俺が|色《いろ》を喰うところ。あれが俺の食事。俺の妖力をちょっとずつ流し込みながら、しばらくは生気だけ吸うの。俺の妖力が体内に増えるとね、人間の方から俺と同化したくなるから、そうなったら喰うんだ」
紅が、シャボン玉を吹きながら説明してくれた。
あまりに普通に話されて、どう返事をしたらいいか、わからない。
(けど、色って子は痛そうでも辛そうでも、無かったよな)
むしろあの顔は、気持ち良さそうに見えた。
だったら、怖くはないのかもしれない。
「そうなるまで、大体、一月くらい。だけど、蒼は、ちょっと違うかな」
紅の手が蒼の顎を撫でた。
「俺はね、本当は人の魂より、霊力の方が好きなんだ。霊元を持つ人間は霊力を量産できるし、すぐに喰い切ったりはしないから、長く食えるね」
紅が、ニコリと微笑む。
蒼の血の気が下がった。
「それにさ、昨日の蒼の霊力は、とっても美味しかったよ。蕩けそうだった。すぐに食べきっちゃうのは、勿体ないからね」
「あの! 食べきったりも出来るんですか?」
思わず聞いてしまった。
生かさず殺さずでむしり取られるのは、ある意味で死刑確定を待つ時間が長引くようなものだ。
「霊元を食べると終わりかな。霊元を失くすと、人は死ぬから。でも、そんな風にはしないよ。そうしないために、俺は蒼を買ったんだから」
紅が、シャボン玉を置いて、紙風船を手に取った。
口を近づけて、息を吹き込む。
息以外の何かが一緒に吹き込まれていると感じた。
(あれは、もしかして、色って子の魂、の一部、かな)
息を吹き込んだ紙風船から、紅が手を離す。
たくさんのシャボン玉と一緒に、紙風船が空に昇っていく。
「俺が喰った子たちの魂は、俺の中に溶ける。だから、せめて一部でも、冥府に逝けるようにね」
紙風船を見上げる紅の横顔を、蒼は眺めた。
どこか悲しそうな顔をしているように見える。
昨日、色という子が「溶けたい」と言い出した時の紅も、浮かない顔に見えた。
(喰うために買ってるのに、何でへこむんだろ)
優しすぎるのか、偽善なのか、今はまだ、わからなかった。
「こういうの、人の世では自己満足っていうんだろ? 友人には馬鹿にされるんだ。俺も、意味ないよなって思うんだけどね。やらずにはいられないんだよね」
そう話す紅を、非難する気にはなれなかった。
「まだよく、わからないけど。あの子はきっと、痛くも苦しくもなく死ねたんだろうし、辛くなかったなら、僕は良かったと思います。紅様の紙風船が自己満足でも、自分が満足できるなら、他人に文句言われる筋合いじゃないって、思う」
ぼそぼそと話す蒼を、紅がぼんやりと眺めた。
大きな手が伸びてきて、蒼をそっと抱き寄せた。
「ありがとう、蒼。蒼は優しい子だね。好きになれそうだよ」
頬ずりされて、こそばゆくなる。
咄嗟に顔を逸らした。
「僕は、優しくなんかないです。本当は他人のことなんか、どうだっていいし。自分のことしか考えてない。自分が只、痛い思いとか辛い思いとかしたくないだけで、あの子が本当はどう思ってたかなんて、知らない」
出会って数分で死んでしまった少年のことなんて、わからない。
自分に重ねて考えた、ただそれだけだ。
(この妖怪はきっと、優しいんだろうな。優しいけど、やっぱり人を喰うんだ。妖怪だって喰わなきゃ、死ぬんだ。当然だよな)
紅が、更に蒼の体を抱き寄せて、また頬ずりした。
「やっぱり、好きになれそうだよ、蒼」
愛おし気に名を呼ぶ紅の瞳が、蒼にはとても綺麗に映った。
蒼愛は何枚もの紙に、名前を書き続けていた。 墨を付ける必要がない不思議な筆で、どんなに使っても減らない紙に名前を書いていく。「火産霊様の漢字は、難しいです。画数が多い……」 墨で書くと、文字が潰れてしまう。 もっと細い筆が欲しいなと思った。「筆の先を使ってみろ。ぐっと押し付けねぇで、ふわっと先だけで書けば、細くなんだろ」「ふわっと、先だけで……。難しいけど、書けるかも!」 コツを教わって、筆の使い勝手が増えた気がして嬉しくなる。「いいじゃねぇか。蒼愛は器用だな。教えるとすぐに覚える。素直だから飲み込みも早ぇ。理解も早いから、頭がいいんだろうなぁ」 たくさん褒められて、照れ臭い気持ちになった。「頭がいいわけではないです。僕、現世では学校にも行かせてもらえなかったし、知らないコトばかりです」 恥ずかしくて、顔が俯く。 そんな蒼愛の頭を、火産霊がわしわしと撫でた。「学ぶ場所は学校だけじゃぁねぇだろ。きっと地頭が良いんだろうぜ。蒼愛は好奇心や意欲もあるから、いくらでも伸びるぞ」 そんな風に褒められると、もっとたくさん覚えたくなるし、できるような気になってくる。 火産霊は乗せ上手だなと思った。「神様の名前は皆、漢字が三文字なんですね」 全員の書き取りを終えて、改めて見直す。 発音だと四文字の神様も、漢字だと三文字だ。「ああ、この国じゃぁ、名前が重要でな。力の強さにも関係してくる。独り者は一文字、番を得れば二文字、それ以上の存在は三文字の名前になるんだ」 前に紅優も、瑞穂国では名前が大事だと話していた。「神様以外にも、三文字の名前の存在がいるんですか?」 それ以上の存在、という表現が気になった。 頷いて、火産霊が本を開いた。『瑞穂国創世記』だ。「一通り、書き取りも出来たし、読書しようぜ。蒼愛の疑問はこの中に詰まっているからな」 ごろりと横に
しばらくして、火産霊が数冊の本と紙と筆を持って戻ってきた。「色々持って来たぞ。蒼愛はどれがいい?」 火産霊が見せてくれたのは、現世にもある昔話の簡単な本から、ちょっと難しそうな幽世の本まで色々あった。 その中の一冊に、蒼愛は手を伸ばした。「これ、瑞穂国のお話ですか?」 タイトルには『瑞穂国創世記』と書いてある。「ああ、そうだ。瑞穂国ができた時の話だ。漢字が多いから勉強にもなるぞ」「これが良いです! 漢字、覚えたいです!」 蒼愛はぴょんと起き上がった。 途端に体中が痛くて、隣に腰掛ける火産霊の膝にぱたりと倒れた。「無理して起き上がんな。横になって読もうぜ。うつ伏せになれば、読めんだろ。漢字も書ける」 火産霊が笑いながら横たわった。 ちょっと行儀が悪い気もしたが、神様が良いというのだから、と思って蒼愛も横になった。「神様の名前も沢山出てくるから、そうだな。先に俺らの名前を書けるように練習するか」「火産霊様の? この本には、火産霊様も出てくるんですか?」「当然だろ。この国を作った時の話だぜ。今の神々は皆、出てくるよ」 蒼愛は、呆然とした。 言われてみればその通りなのだろうが。 ぽやっとしている蒼愛の額を、火産霊が突いた。「急にぼうっとして、どうした?」「だって、現世じゃ、国を作った神様には普通、会えないし。会ったことのある相手が神話に出てくるとか、感覚がよくわからないというか」「瑞穂国でだって、普通はそうそう会えるモンじゃねぇぞ」 火産霊の言葉が余計に理解できなかった。「蒼愛は色彩の宝石で、紅優の番だから神様に会ってるだけだ。普通に地上に住んでる妖怪は、生きてる間に会う機会もねぇ。下手したら神様の存在すら信じてねぇとか知らねぇ奴もいるんじゃねぇか」 火産霊の説明には違和感しかなかった。「え? え? でも、紅優も黒曜様も普通に神様に会っているし。蛇々だって、神様の宮にわざわざ僕の話をしに来ていたんですよね?」
次の日の朝、体中が痛くて重くて、蒼愛は起き上がれなかった。 空が白みがかるような時間まで紅優に愛されていたので、睡眠もほとんどとれていない。(紅優、お腹空いてたのかな。いつもよりいっぱい食べられた……) 蒼愛も、いつもより沢山紅優の妖力を喰った。 最近は紅優の妖力で空腹が満たされるので、人間のような食事の頻度が減った。(人じゃなくなるって、こういう感じなのかな。日美子様にも、人と同じように成長しないし、する必要がないって言われたけど) 自分が人間という存在であり続けることに執着はない。 そもそもが人間の扱いを受けずにきた命だ。(ご飯を食べられなくなるのは、ちょっと悲しいかも。美味しいもの食べると幸せな気持ちになれるし) 空腹だからこそ、飯が上手い。 そういう美味しいを感じられなくなるのは、勿体ない気もする。(この発想自体が贅沢だ。空腹を満たせなくて飢えていた頃だってあったのに) あの頃は、腹なんか空かなければ良いのにと思っていた。(僕、どんどん贅沢になってる気がする。そのうち贅沢だとも思わなくなるのかな。それはちょっと、怖いな) 今の幸せに慣れて、どんどん贅沢になる自分を想像したら、怖くなった。 大切な何かを見失ってしまう気がした。「蒼愛、大丈夫かぁ」 声と同時に扉が開いて、火産霊が入ってきた。「火産霊様、すみません。いつまでも寝ていて……」 起き上がろうとする蒼愛を火産霊が止めた。「寝ていて構わねぇよ。紅優がやり過ぎたって言っていたからなぁ。今日は一日、寝ていろよ」「やり……」 かっと顔が熱くなった。 何でも話せる仲良し兄弟なのかもしれないが、そういう話はできれば内緒にしてほしい。「蒼愛が佐久夜を一緒に愛そうって言ってくれたのが、嬉しかったんだってよ。俺も嬉しかったぜ。前の番にまで愛情を向けるなんてなぁ、そうできるもんじゃね
夕餉を終え、風呂でさっぱりして、蒼愛は紅優と床に就いた。 ずっと耳が寝っぱなしの紅優を胸に抱いて眠った。 いつもは蒼愛が紅優に抱いてもらって眠るのに。大きな紅優を包み込んでいるような気持になれて嬉しかった。(紅優にとってはとても大事な話で、打ち明けるのにも勇気がいる過去だったんだ) 黙っておくことも出来なくて、話さなくても話しても辛くて。 そんな気持ちだったんだろう。 (どうしたら、紅優の気持ちが楽になるかな。忘れられなくても、せめて辛くないように、僕に出来ること、何かないかな) 紅優に喰われずに、共に生き続けること。 それがきっと一番だ。 しかし、すぐには証明できない。(僕が紅優をいっぱい愛していて、溶けないくらい力もあるよって、わかってもらえればいいのかな。ちょっと違う気がする) 蒼愛の気持ちも霊力も、紅優はきっと蒼愛よりよく知っている。(後悔してるのかな。佐久夜様と番になったこと。好きじゃ、なかったのかな) そういえば、紅優の答えを聞いていない。 蒼愛は腕の中の紅優を眺めた。蒼愛の胸に顔を寄せる紅優は、穏やかに寝息を立てている。(僕より先に眠っちゃうなんて、珍しい。御披露目、紅優も疲れたのかな) 紅優の白い耳をそろりとなぞる。 狐の耳は柔らかくて、触れていると気持ちいい。「どんな気持ちだったか、前より知りたくなったよ、紅優」 話を聞くまでは、ただの過去だと思っていた。 けど今は、佐久夜がどんな神様だったのか、気になった。「ん……」 小さく声を漏らして、紅優が蒼愛にぴたりと抱き付いた。「ぁ、ごめん。起こしちゃった……」「好きだったよ」 紅優が寝言のように呟いて、蒼愛は言葉を止めた。「あの時は、好きだって思ってた。けど、全然足りなかったんだ。好きって気持ちも、神様の番になる覚悟も、あの時の俺には足りてなかったんだよ」
「俺の前の番はね、火ノ神、佐久夜(さくや)。火産霊の前に瑞穂国の神様だった、火産霊の弟だよ」 蒼愛は目を見開いた。「妖怪と神様も番になるんだね。だから火産霊様と紅優は友達というか、兄弟みたいなの?」 もう一度、火産霊を見上げる。 火産霊が珍しく眉を下げた顔で頷いた。 「佐久夜はもういねぇが、俺にとっちゃぁ紅優は永遠に弟だ。何よりな、佐久夜が死んだのは紅優のせいじゃねぇ。まして、食い殺したわけじゃぁねぇ。あれぁ、佐久夜の方に問題があったんだ」 火産霊の説明は納得できたし、蒼愛も理由があったのだろうと考えていた。 理研の子供たちをあれだけ優しく喰って見送ってくれた紅優が、理由もなく番を食い殺すとは考えられなかったから。「クイナに瑞穂国の火ノ神を頼まれたのは、最初は俺だった。だが現世での役目があってな。代わりにこの幽世に来たのが佐久夜だった。けど、佐久夜は神力が弱くてな。そもそもが人と神の間の子だ。そういう存在は強くなるか弱くなるか、極端に分かれるんだ」 ぼんやりと火産霊を見上げる。 やはり蒼愛にとっては、日本の神話を聞いている気分だ。 何より話している火産霊の表情が気になった。いつもの明るさや豪胆さが抜け落ちて、肩が下がっている。「佐久夜の神力を強化する目的もあって、俺は番になったんだ。この幽世に来る前から、現世ではそれなりに名の知れた妖狐だったし、妖力も強かったからね。現世に居た頃から佐久夜を知っていて、この幽世にも側仕として来たんだよ」 黒曜も紅優も「現世には長くいた」と以前に話していた。 神に仕える妖狐なんて、強いに決まっている。 強くて美しい紅優が側仕になるのは、不思議じゃなかった。「それでね、蒼愛はもう、わかると思うけど。番になると体を繋げて食事をする。霊力や妖力を交換するでしょ。あれは、力が対等でないと、相手を飲み込んでしまうんだ」 紅優の顔が俯く。 言葉が途切れた。「つまり、紅優が佐久夜を飲み込んじまった。神力も魂も、体ごと喰っちまったんだ。佐久夜の神力より、紅優の妖力の
案内された部屋には、既に食事の準備が整っていた。 大きな膳に乗り切らないくらいの贅沢な和食が並んでいた。 感動している蒼愛を、火産霊が満足そうに眺めた。「蒼愛は和食とか和菓子が好きなんだろ。好きなだけ喰えよ。喰って、もっとでっかくなれ」 頭をわしゃわしゃと撫でられる。 仕草は雑なのに、その手つきはやっぱり優しい。「いただきます。僕の好み、紅優に聞いたんですか?」 食事を始めながら、聞いてみる。「いいや、淤加美に聞いた。火ノ宮に逗留させるつもりなら、蒼愛を傷付けないように大事に扱えってな」「御披露目の直後か……」 紅優が何かを思い出した顔で頷いている。「淤加美は、よっぽど蒼愛を気に入ったんだなぁ。蒼玉だし当然といやぁ当然だが。番だ神子だと、持っていかれなくて良かったな」 火産霊が悪戯な視線を向ける。「本当にね。良かったと思ってるよ」 紅優が素直に安堵の息を吐いていた。 火産霊が紅優に杯を差し出した。「ともあれ、お前ぇらは番になったんだ。さっき、蒼愛にも火の加護を与えたからな。紅優と同様に、俺の兄弟だ」 火産霊が嬉しそうに紅優と献杯する。 浮かれる火産霊の姿を眺める紅優も、なんだかんだ喜んでいるように見えた。 「火産霊様は……」「火産霊でいいぞ。敬語もいらねぇ。兄弟なんだから、気楽に話せよ」 蒼愛の言葉に火産霊がとんでもない要求を被せてきた。 神様を呼び捨てにするのはハードルが高い。 紅優に様付けと敬語を止めた時だって、気持ち的にはかなりの覚悟が必要だった。「えっと、火産霊……は、その……」 テンパり過ぎて、話が続かない。 自分が何を話そうとしていたのかも忘れてしまった。「ごめんなさい、ムリです。今は無理なので、もう少し時間をください」 恐縮する蒼愛を